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陸奥の国の一ノ宮、志波彦神社・鹽竈神社を参拝してきました。

志波彦神社・鹽竈神社境内からの展望

写真は志波彦神社・鹽竈神社境内からの展望です。

鹽竈神社

鹽竈神社の鳥居

写真は鹽竈神社の鳥居。

鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社です。

鹽竈神社の社号標

社号標には「奥州一の宮 鹽竈神社」と書いてありますね。。。

鹽竈神社の御由緒

鹽竈神社の御由緒。

鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆国三島社2,000束、出羽国月山大物忌社2,000束、淡路国大和大国魂社800束であった。これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く[7]、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない[8]。
宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている[9]。
『朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後国春日布河両社。坐陸奥国清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥国浮島鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。
中世
中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈[10]は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる[11]。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されている[12]ことからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。
文治6年(1190年)伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼が文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の吉良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保[13]を寄進している。
応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』には、陸奥国の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本国一宮記』では陸奥国一宮は都都古和気神社とされた[14]。この後、近世においては主に大日本国一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった[15]。しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている[16]。
近世
近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した。
初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進[17]、慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗は寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、1664年(寛文4年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗は伊達騒動で万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。 歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主吉村も1704年(宝永元年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

鹽竈神社の境内図

鹽竈神社の境内図。

鹽竈神社の東神門

こちらは鹽竈神社の東神門になります。

鹽竈神社の隋神門

そして、鹽竈神社の隋神門。

鹽竈神社の右宮、左宮

こちらは鹽竈神社の右宮、左宮になります。

鹽竈神社の境内は、社殿14棟と鳥居1基が重要文化財に指定されている。これら社殿は、仙台藩4代藩主伊達綱村の時、1695年(元禄8年)に地鎮が行われ、5代伊達吉村の時、1704年(宝永元年)に竣工したものである。なお、随身門は1698年(元禄11年)、左右宮拝殿と別宮拝殿は1699年(元禄12年)にそれぞれ上棟しており、本殿が完成して遷宮の行われたのが宝永元年のことである。大工棟梁は松原助兵衛重成。
東西に並列する左宮本殿・右宮本殿はともに三間社流造。各本殿の手前に切妻造妻入の左宮幣殿・右宮幣殿が建ち、これらの手前に接して左右宮廻廊が東西方向に建つ。左右宮廻廊は中央部を切妻造妻入、左右を切妻造平入とする。廻廊両端から発した瑞垣は両本殿を中心とする聖域を画している。廻廊の手前には入母屋造の左右宮拝殿が建つ。本殿、幣殿、廻廊、瑞垣はいずれも檜皮葺きで、部材は素木仕上げとし、各所に取り付けた装飾金物以外に目立った装飾のない簡素な意匠とする。これに対し、拝殿は銅板葺き、朱漆塗りとする。
左右宮の手前東側に西面して建つ別宮は本殿、幣殿、廻廊、瑞垣、拝殿から構成される。別宮の本殿と幣殿は左宮・右宮の本殿・幣殿と同規模・同意匠とする。別宮の廻廊、瑞垣も左右宮より規模は小さいものの、意匠・構成は共通している。拝殿は左右宮拝殿が正面7間・奥行4間であるのに対し別宮拝殿は正面5間・奥行3間とする。本殿、幣殿、廻廊、瑞垣を檜皮葺き、素木仕上げとし、拝殿を銅板葺き、朱漆塗りとする点も左右宮と共通する。
左右宮本殿の手前(南側)には唐門及び廻廊、その手前に随身門が建つ。「唐門」とは通常、唐破風をもつ門を指すが、当神社の唐門は切妻造の四脚門で、唐破風をもたない。重要文化財指定名称は単に「門」となっている。門と左右に接続する廻廊ともに銅板葺き、朱塗りとする。随身門は三間楼門で、銅板葺き、朱塗りとする。神社入口の石段下に建つ鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、1663年(寛文3年)の建立である。

鹽竈神社の別宮

こちらがいわゆる本殿となる鹽竈神社の別宮ですが、改修中でした。。。

志波彦神社

志波彦神社は鹽竈神社境内に鎮座する、鹽竈神社の摂社になります。

志波彦神社の御由緒

志波彦神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
元禄8年(1695年)に書かれた縁起によれば、天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり[3]現在のところはっきりとしていない。農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。
清和天皇の貞観元年(859年)に正五位下勳四等から従四位下に神階を進め[4]、延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ名神大として記載されている。
このように朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。元禄8年の縁起によれば、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方[5]の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀された。
明治時代になると、国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した[6]。現・八坂神社境内の旧社殿はそのまま残し、既に遷宮した当社から1877年(明治10年)3月に分霊して「冠川神社」として摂社となった。

志波彦神社・隋神門

志波彦神社の隋神門。

志波彦神社・御社殿

志波彦神社の御社殿になります。

鹽竈神社の神職養成所

鹽竈神社には、神主さんになりたい人の為の学校、「神職養成所」があります。

神主さんになるには、一般的には國學院大學等で学び、怪異を取得するの一般的ですが、鹽竈神社の神職養成所を修了しても階位がもらえ、神社に奉職する資格を得る事が出来ます。

志波彦神社・鹽竈神社の御朱印はこちら⇒志波彦神社・鹽竈神社の御朱印


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To be continued